コリント第二6章
6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。
神の恵みは、神様の好意による祝福です。彼らがそれを受け取るように勧めました。コリントの人たちにとって受けるべき恵みは、彼らが肉にはよらず、新しく生まれた者として歩むことです。パウロは、この手紙によってそれを強く勧めて来ました。彼は、神と共に働く者なのです。神の恵みをむだに受けないように勧めました。
6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
イザヤ書の言葉が引用されています。直接には、キリストに関する預言です。今は、恵の時、今は救いの日です。恵みは、信者を新しく生まれた者として歩ませることを指しています。それがキリストの裁きの座で最も大きな栄光を受ける道であるからです。イエス様と同じ者になることが到達点です。
救いは、信者がキリストの裁きの座で評価を受け、報いとして永遠の資産としての栄光を受け継ぐことです。
イザヤ書
49:8 主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。
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6:3 私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、
6:4 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、
コリントの人たちが、パウロたちのゆえに彼の務めが謗られ、彼らが躓くことがないために、あらゆることにおいて神のしもべとして推薦しました。
苦難、苦悩、困難の中で神のしもべとして推薦しました。人々の目に晒されている中で、神のしもべとしての証しを立てたのです。
6:5 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、
これは、社会的、外的要因です。
疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、
これは、肉体的苦しみです。
6:6 また、純潔と知識、
混じり気ないことと正しい知識です。
寛容と親切、
対人関係です。
聖霊と偽りのない愛、
行いの元になるものです。
6:7 真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、
真理の言葉は、神の言葉です。そして、神の力です。義の武器は、手と関連づけられていますので、行いを表しています。すなわち、義の行いです。
6:8 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。
そして、人の評判です。良い評判も、悪い評判もキリストの僕としての証しなのです。
私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
6:9 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。
そして、見かけとは異なることが証しされています。神のしもべとして何もそしられるようなことをしていないことを示しました。
6:11 コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。
6:12 あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。
パウロは、コリントの人たちに素直に話しました。コリントの人たちに心は広く開かれているし、彼らに対する愛の心は、狭くなっていません。コリントの人たちの心の中で狭くなっていたのです。うわべのことを誇る人たちのパウロに対する悪い評価が影響していました。
6:13 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。
パウロは、心を広くしてくださいと願いました。子供に語るようにと言い、愛によって彼らのことを考え、語っていることを示しました。私たちと同じようにと言い、パウロたちが広くしていているのですから、同じように広くすることを求めました。
6:14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
そして、不信仰な者と釣り合わないくびきを共にしてはならないことを記しました。彼らは、必ずしも未信者を指していません。文脈から、上べのことを誇る人たちのことです。彼らと共に歩んでいることが問題の根にあったのです。彼らについては、十一章で、明らかにされています。彼らは、信者として働いていましたが、非常に悪影響をもたらす働き人たちです。
コリント第二
11:3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。
11:4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。
11:5 私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと思います。
11:12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。
11:13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
11:15 ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。
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彼らは、コリントの人たちを教えにおいて惑わしていました。別のイエスを宣べ伝え、異なる霊、異なる福音をもたらしました。彼らは、サタンのしもべと呼ばれています。彼らの行為は、神の御心に沿ったものでは決してありません。まさに不信仰なのです。
正義と不法として対比されています。正義は、正しさ。不法は、神の言葉に背いている状態です。後に偽使徒として記されている人たちのしていることは、神の言葉に従うことではなく、誤りを教え、自分の誇りを求めることです。神の教えからはかけ離れていたのです。不法です。
光と闇であり、彼らは、真理の教えとしての光から離れ、暗闇の業をしていたのです。
この箇所が未信者との関係の教えとして、釣り合わないくびきを負うこととして語られることがありますが、文脈を無視しています。未信者と釣り合わないくびきを共にしないことは良いことですが、ここで未信者のことを取り上げる関係性が全くありません。また、そのことに関する記述もこの手紙には記されていません。
・「不信者」→アピストス。信仰がないこと。忠実でない。誠実でない。必ずしも、未信者のことを指していない。イエス・キリストを信じたが、不信仰な者も指す。例として、下記の聖句で、「信じない者」のこと。
ヨハネ
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
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・「不法」→神の教え、言葉から離れた状態。
6:15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
彼らのことをベリアルと表現しました。彼らはサタンのしもべなのです。信者は、神の言葉を信仰によって受け入れ従う者です。「不信者」すなわち信仰から離れている者は、神の言葉を受け入れず従わない者です。神の御心の実現からは、かけ離れているのです。
6:16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
「私たちは」、神の宮です。聖霊の宮なのです。生ける神の宮です。彼らは、偶像です。神の教えから離れたことを教えるからです。
御言葉を引用し、与えられている祝福について覚えさせました。主は、彼らの間に住まわれ、歩まれます。彼らの神となり、彼らは、主の民となります。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」
そのような祝福を与えられているのですから、彼らの中から出て行き、離れよと。汚れたものに触れてはならないのです。そうすれば、主は受け入れられます。
そして、主が彼らの父となり、彼らは、主の息子、娘となります。愛すべき、親しい交わりを保たれるのです。